80年代を代表するアイドルの河合奈保子が初めて手掛けた、全曲自作曲およびサウンド・プロデュースのアルバム。それまでの彼女のイメージには皆無である厚塗りのメイクからも、新たな一面を見せようと努力していたことがうかがえる。今となっては、アイドル的ルックスのアーティストは珍しくないが、当時は、アイドルとニューミュージックが相反するものだったので、非常にユニークな存在だった。また、彼女自身、愛くるしいルックスや男性ファンを惹きつける抜群のプロポーションでありながら、実はデビュー当時から、楽譜を初見で歌ったり、マンドリンやピアノを演奏するなどもともと音楽の素養があったことも、作品が生まれた背景と言えよう。本作は、同年春ごろから数度にわたって、ミュージシャンやスタッフ総出で、楽曲制作の合宿を行い、かなり準備期間を設けて制作されている。ローテーショナルなアイドル活動を続けながらも、この時点までで、自作曲はすでに50曲~60曲、書きためていたというのだ。
彼女はそれ以前にも、84年~85年に、ロス・アンジェルスでの海外ミュージシャンの全面的バックアップによる本格的AORアルバム2枚『デイドリームコースト』『NINE HALF』をリリース、そして85年ごろ頃から、徐々に自作曲をコンサートで披露するなど、アーティスティックな一面を徐々にアピールしていた。ちなみに、デヴィッド・フォスターとの出会いがアーティストを本格的に目指したキッカケだと後年のインタビューにて語っている。
彼女の書くメロディーは、憂いを帯びた優しいメロディーが多いことが非常に特徴的。(余談だが、95年頃、『関口宏の東京フレンドパーク』にて、光る場所を憶えて、音に変換するという成功率の非常に低いゲームをいとも簡単にクリアし、その音楽的センスの確かさを披露している。)日本作曲家協会に当時最年少年齢会員に認定されたこと自体は、事務所がらみのものかもしれないが(笑)、実際に聴いてみれば、その憂いや優しさは明白だ。
特に定評があるのがバラードで、本アルバムからリカットされた「ハーフムーン・セレナーデ」は、彼女の後期の代表曲にもなった。他にも、「雨のプールサイド」などマイナーコードで吼えるように絶唱するもの、「ロードサイドダイナー」などロック調のアップテンポのもの、「夢見るコーラス・ガール」など楽しくはずむメジャーコードのもの、そして「スウェイート・ロンリネス」など裏声でさらりと歌ったアカペラのナンバーなど、一般のシンガーソングライターと比べても作風や歌い方も多彩。個人的には、それまでの明るいイメージを払拭し、夜の女風に切なく歌う「クラブ・ティーンネイジ」はただただ聞き惚れるばかり。但し、それまで歌ってきた職業作家やニューミュージック系の個性が強烈な作品に比べると、やや淡い印象で、本作自体はご祝儀的に一時的に大きくセールスは回復したものの、その後は、こうしたメロディーファン以外が離れてしまう結果となった。
アルバムのオリコン最高位は4位、累計売上は約9万枚と、前作の1.8倍ほどセールスを回復させる。また、シングル・カットされた「ハーフムーン・セレナーデ」も最高位6位と好調。当時、リカットシングルでシングルTOP10入りという異例のヒットで、この年のNHK紅白歌合戦でも、第1部の締めくくりに登場した。
本作のアレンジャーは瀬尾一三である為か、ミュージシャンも後の中島みゆきや、長渕剛、徳永英明らのCDやLIVEで見かける実力派が多数参加。このことからも、相当注目されていた作品だと分かる。
全作詞は、後に平原綾香「Jupiter」や杏里「SUMMER CANDLES」で脚光を浴びた吉元由美。特に、河合のリード曲「ハーフムーン・セレナーデ」のサビの部分、「だれもみんな一人ぼっちだから」と、「Jupiter」のサビ「私たちは誰も一人じゃない」が対をなしているのが興味深い。
また、プロデューサーには、中森明菜やチェッカーズのヒット作で知られる売野雅勇が担当。1曲ごとの女性のプロフィールを決めて、それをイメージした作詞、作曲を河合と吉元にアドバイスしている。
これだけ特徴の多い作品ながら、自作曲アルバムはこれをピークに、徐々にセールスを下げていく。やはり、当時、アイドルの延長でプロモーションを実施していたことや、また、世間からの先入観を打破するほど大きな話題にできなかったことが敗因か。
しかし、00年代以降、CDやDVD BOXで当時の映像や音源が復刻される度に高セールスを残すのは、やはりこの多彩な才能があったからこそ。是非一度、ニュートラルな気持ちで、ご堪能いただきたい逸品だ。